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すみません、ブログを移転しました。
移転先は「続・晴耕雨読」 となります。 お手数ですが、ブックマークに登録されている方は(もしそのような方がおられるようでしたら)、変更よろしくお願いいたしますm(__)m。 移転先でも、引き続き読んでいただけると嬉しく思います。
先日、耳鼻咽喉科の授業の一環として、別の大学の先生(以下、M先生と記載)が来て、SRS(睡眠時無呼吸症候群)について授業をしてくださったんだけど、それがとても面白い授業だったので、ブログに書こうかと思う。
授業の内容は、夜は生理的に眠くなるという人間の眠気の周期についての説明から始まって、SRSで眠りの周期が妨げられるとどのような症状が出てくるか(合併症)、SRSの原因と治療法、といったものであった。 で、どこらへんが面白かったのかというと、実は授業内容ではなくて(内容も面白かったんだけど)、授業の進め方である。一言でいうと、なんか”うさんくさい”感じがしたのだ。 そう、そっちの”面白い”だったんですね。 例えば人間の生理的な眠気の周期について。明け方の3時~4時は統計的に眠気のピークであるらしいのだが、世界的な大事故は大体その時間に起きていることからもうなずける、とのことであるが…。 世界的な大事故ってどの程度の事故なんだ? 他にも、眠気の周期は昼過ぎと明け方の3時くらいであり、それ以外の時間、特に夕方の5時~8時は交感神経が活発になっているから、その時間にスポーツで高記録が出やすいらしい。 でも、夜は副交感神経優位になるという話を聞くし、昼より夜の方が高記録の数が多いとしても、それは夜の方がスポーツを行う機会が多いから(昼はみんな仕事してるから、観戦しに行けないからね)、分母が大きくなって、そのため必然的に記録の数も多くなるっていう原因も考えられるんじゃないだろうか。 まぁ、それらの話はM先生にしてみれば例え話なんだろうから、そこまで目くじらをたてなくてもいいかな、とも思うんだけど、うさんくささを感じたのは上の話だけではない。 授業中にSRSかどうかを判定するアンケートを行って、学生に挙手させて、その数を指名した学生に数えさせたんだけど、どうもその結果を研究に使うらしいのだ。 こうやって文章にして書くと自然に聞こえるかもしれないけど、実際は「この統計のとりかたは問題あるんじゃないの?」という感じだった。まず、大教室の授業で、全員が出席しているとは限らないから、母集団の数も不明であった(しかも、授業に出ている学生の人数を確認していない)。 次に、突然近くの学生が指名されて挙手の数を数え始めたんだけど、慣れてないだろうから数えミスがあったんじゃないだろうか。。っていうかいきなり統計を取るから手を挙げろ、と言われた上に、アンケートに答えるための十分な時間をとらずに挙手をさせたとあって(少なくとも僕には回答の時間が足りなかった)、モチベーションがあがらず、見えるか見えないかぐらいの感じで挙手した人もいるのではないだろうか?実は僕がそうだったんだけど…(おい!)。それではむしろ数えミスしないほうが不思議なくらいである。 ここまで書いただけでも、偏り(バイアス)のある統計結果が出たことが予想される(疫学的には測定バイアスがかかっていると思われる)。 というか、うちの学校の先生ならまだしも、外部の先生が初対面の学生に対して、大した説明もせず、このようなデリケートな仕事をさせるべきではないんじゃないだろうか、と思う(もしやる場合は、綿密な打ち合わせを行うべきだと思う)。授業中のノートの整理もあるだろうに、いきなり訳も分からず仕事を振られて「ちゃんと数えないと調査結果に響くからきちんと集計するんだよ」とか「挙手の合計の人数と出席カードの数が違ってたら、出席を受け付けないからね(ってことは全員欠席?)」なんて言われた集計係のクラスメートに同情の念を禁じえない、というのもあるのだが(ほんとに気の毒だったと思います。K君、お疲れさまでした)、それよりも、なぜM先生は「学生は先生がアンケートを取ったら出来る限り誠実に回答し、学生に数える仕事を任せたら正確に数える」と無条件に信じることが出来るのだろうか、というところで引っかかるのである(あっ、別に集計者が数をごまかす、とか言っているわけではないですよ。条件によっては、正確に数えたくても数えられない場合があるんじゃないか、ということが言いたいわけでして)。 別に僕のクラスの生徒が信用できないと言ってるわけではない(むしろ、うちのクラスは歴代でもまじめな方だというのが先生方の評価らしい)。相手が信用できる人間かそうでないかという問題ではなく、経験的に、初対面の人間同士は心理的に距離を取るのが自然だと思う、ということが言いたいのである。逆に不必要に近寄ってきたり(なれなれしかったり)、仕事をいきなり押し付けたりする人間に対しては、うさんくささを感じてしまう人が多いのではなかろうか。 「星の王子さま」byサン=テグジュペリにも、友達の作り方について、お互いに徐々に近づいていくものなんだ、ってなことが書いてあるよね。 多分、僕がM先生に対して感じてしまう”うさんくささ”は、先生の無防備とも取れるような心的距離の取り方からきているように思うのである。それは先生が「どこでも医学生は信頼できる」という前提を無意識においているからなんじゃないかと思うけど…。いや、手前みそだけど、医学生は一般に倫理性は高いと思う。人の命をあずかる仕事につくために勉強してるわけだしね。でも、僕自身が信頼のおけない、先生に対して反抗的な生徒(いつも内職か睡眠か、って感じなので←おい!)なだけに、その前提の置きかたはどうなんだろう、って思ってしまう。 僕が思うに、自分の設定した前提条件が正しいものだと信じてしまう(っていうか前提条件を表在化する必要性を感じない)ことは、何らかの理論を立てたとき、どこかで矛盾を引き起こす可能性がある。冒頭でM先生の例え話にかみついたのは、その矛盾の徴候を感じたからかも知れない。 ちなみに、前提の誤りに気づきにくいことは、立花隆が「知のソフトウェア」で書いている。 ……… 僕、なんだか偉そうなことを書いてしまってますね、すみません。それ以前に、このブログが先生方の目に触れることがあれば、僕の立場が危うくなる気がする…(そのときはすみませんがどなたかこっそり教えてください。速攻削除します)。あまり人に知られていないブログでよかった、と思う瞬間である。 ちなみに、ここまでM先生に対してずいぶんネガティブなことばかり書いてしまったけど、ためになることも結構言っていたんですよ。 例えば、SRSになると夜尿を併発する場合があるらしいんだけど、その機序は以下の通りだそうだ。 SRS→肺に酸素が行きわたらなくなるため陰圧になる→さらに肺に血液を送るため心血流が増加→右房圧が上昇→ANP(心房利尿ペプチド)分泌促進→利尿促進→夜尿 うん、この説明は分かりやすいし、理論的に納得できるなぁ。 思うに、普段不真面目な僕が授業を聞いていたのは、この”うさんくささ”と”ためになる”ことが混ざっていたからなのかもしれない。「これってほんとかなぁ?一部うそっぽいけど、でもためになりそうだし…」っていうような話が僕は好きなんだな、って思ったりする。自分自身がうさんくさいことをよくくっちゃべってる人間だから、うさんくさい話が大好きなのである。 ちなみに、M先生の授業、すごい良かった、って方へ。こんな否定的なブログを書いてすみません。どうかお気を悪くしないよう。 では、このへんで終わりとします。長文失礼しました。 # by ishikawasss206 | 2006-01-15 03:38
そろそろ大学受験のシーズンである。
センター試験まであと1週間、受験生にとっては今がまさに正念場だろう。 産業界も今の時期を売り込みのチャンスとにらんだのだろう、近所のマックスバリューに買い物に行ったら、こんな商品を発見した。 「大学にうか~る カールちーず味」 むむ、やるなぁ、そう思っていたら、別の棚にはこんな商品が。 合格当前(アタリメ) 絶対勝魚(かつお) 難関軽通(カルパス) こっちもなかなかのネーミングセンスだ。でも、全部酒のつまみなのが気になるところである。お父さんが息子・娘の合格を祈念しながらこれで一杯やるのだろうか。 ちなみに、その隣の棚には「目指せ合格・コアラのマーチ」が売っていた。もはや大学受験とは何の関係もないネーミングであるが、なんとなく購買意欲がそそられるのが不思議である。 う~む、これだけ絶妙なネームを見せられると、僕も何かいいネームを考え出さなきゃいけない気がしてきた。燃やさなくてもいい対抗心を燃やしてるのは、今日の耳鼻咽喉科のテストが勉強不足のせいで不完全燃焼だったからという説もあるが、そんなことは脇においておいて。 例えば、「志望校に技あり!わさビーフ」なんてどうだろう。 …なんだか、「一本じゃないのかよ」ってつっこみを受けそうなネーミングだなぁ。むしろ不吉なネーミングな気がしてきた。どうやら商品化する機会は永遠になさそうである。 なにはともあれ、受験生の皆さんには頑張って欲しいと思います。 ちなみにFテキストではセンター試験の解説を他のサイトに先駆けて行う予定です。 FTEXT と、さりげなく宣伝してみたりして。身近に受験生がおられる方は、勧めていただけると嬉しいです。かなり受験勉強に役立つサイトですよ。 # by ishikawasss206 | 2006-01-13 22:55
2006-01-06の続きから
前回のブログでは、コンテクスト・マーカーがコンテクストの違いを知らせることについて書いた。 でも、2つのコンテクストが重なることだってあるんじゃないだろうか? 例えば、誰かがあなたに「そこの座布団の上にネコがいるよ」と伝えたとする。このメッセージが意味することは、「実際にネコがいる」ということだけでなく、「あなたがネコ好きだと知ってるから伝えたんだよ。これはあなたに対する親愛の印だよ」ということでもありうる。この場合は、事実を伝えるコンテクストと、親愛の情を伝えるコンテクストが重なっていると言える。 そう、この2つのコンテクストは階層が違うのである。このように階層を変えれば、一つの刺激に対して複数のコンテクストを重ねることが可能なのである。これは『グレゴリー・ベイトソン<その1・イントロ>』で書いたように、ユーモアが2つ以上のコンテクストを重ねることで生まれる、ということに通じると思う。 このようなコンテクストの階層の違いについて、ベイトソンは『精神の生態学』で、数学者・論理学者であるバートランド・ラッセルの論理階梯理論を参照している(ラッセルの論理階梯理論自体については僕はよく分かっていないので、あやふやな説明になってしまうかもしれませんが、そこはご容赦を)。 論理階梯理論とは何か?実はよく話からないんだけど、様々な事象を抽象度(論理階層)を分けて考察を加える方法を考えることなんじゃないかと思う。例えば、チェシャネコ、三毛猫、ペルシャネコといった具体的なネコは、それらの集合である抽象概念の”ネコ”とは異なる。誰かに「どんな動物が好き?」って聞いたときに、相手が「そうねぇ、イヌ、ゾウ、ネコ、アルマジロ、三毛猫…」なんて言ったら、「おいおい、抽象的なのと具体的なのが混じってるぞ」って思うだろう。そんな風に、並べたときに違和感を感じる組合せが論理階層の違う組合せである、と言っていいと思う(てきと~な説明でごめんなさいね)。 有名な例としては、クレタ人のパラドックスというものがあげられる。「クレタ人はみんな嘘つきだ、とクレタ人は言った。」っていう、新約聖書に書かれているアレである。 論理学的に、同じ階層で考えてもこの問題は解決する。 すなわち、 ①言ってる本人はクレタ人なので嘘つきだ。 ②でも、「クレタ人はみんな嘘つきだ」という言葉が嘘である必要はない。なぜなら、別に常に嘘をつく必要はないからだ。 論理学的には、「クレタ人である=嘘つきだ」と「嘘つきではない=クレタ人ではない」が命題として等しくなるので、別にクレタ人がたまたま嘘つきでないからといって、そのことがクレタ人であることを否定するわけではないのだ。 まぁ、ここらへんはややこしいので、よく分からないや、って方は飛ばしてくださってもOKです(←早く言えって!)。 でも、ベイトソンが言っているのはこのような話ではなく(あぁ、頑張って上の説明を読んでくださった方から怨嗟の声が聞こえてきそうだ…)、言語のレベルの違いの話である。 これは自己言及文と呼ばれるものである。「クレタ人はみんな嘘つきだ…A」というメッセージを対象言語といい、「このメッセージをクレタ人が言った…B」ことはメタ言語と呼ばれる(by数学者タルスキー)。そう、Aのクレタ人とBのクレタ人は、チェシャネコと抽象的ネコの違いと同様、階層が異なるのである。 だから、具体的なクレタ人は嘘つきだけど、いま自分はクレタ人とかなんとか人とかそういう次元を超えて上から客観的に見下ろす立場で発言してるから、具体的なクレタ人という枠組には含まれないのよ、という説明が可能なのである。 クレタ人のパラドックスはただの例でしょ、って思われるかも知れないが、こんなケースはどうだろう。 僕の知り合いで、「医者って人間は嫌いよ」とよく言う人がいるのだが、それって僕個人も含まれるのか(まだ医学生だけど)、って思うと別にそうではないらしい。これは、医者一般は嫌いだけど、個人では好きな人もいる、ってことで階層の違いを暗に含んでいるんだと思う。 まぁ、本当は嫌われてるのかもしれないけど…。 でも、こんな風に、何気なく言った言葉(一般論)なのに「それってオレ(私)のことについて言ってるの?」なんて受け取られた、なんてことは身近にあることなのではないだろうか。 このように、一つのメッセージに対して、異なる階層での解釈を加えることが可能である。これが、すなわち階層の異なるコンテクストでメッセージをとらえるということである。 一つのメッセージに対して、階層の異なる複数のコンテクストを同時にあてはめることが出来るとして、それらのコンテクストがお互いに矛盾するものであったらどうだろうか?片方のコンテクストでメッセージを解釈すると、もう片方のコンテクストで解釈することが出来ない、でも両方のコンテクストで解釈しなければならない、という異常ともいえる状況があるとしたら? これがベイトソンのいうダブル・バインドというものであるが、次回はそれについて話を進めていきたいと思う。 補足)クレタ人のパラドックスについて、若干違う形で知人のブログにも取り上げられているのだが、書き込んだら長くなりそうだったので、そのブログを見たときにはコメントを差し控えさせてもらいました。本当は書き込みたかったんだけど、このブログをもって、コメントに変えさせていただくということで…。 あと、論理階層については、『攻殻機動隊』15話「機械たちの時間」で、学習型AI搭載ロボット”タチコマ”が、人型ロボットのコンピュータシステムをダウンさせるときに使ってる手口である。いや、アニメ『攻殻機動隊』はよく練られた話だと思います。貸してくれたクラスメートのK君に感謝です。これについては後日項をあらためてブログに書きたいと思います。なにせ電脳化っていうのは現実でもかなり研究が盛んな、アツい分野なものだと思うので。
2005-12-26のブログの続きから。
前回、パブロフのイヌについて、火事場で火災報知器のベルを聞いたらヨダレを垂らさないんじゃないか、ということを書いた。 もしかしたら最初はヨダレを垂らすのかもしれないけど、焦げた臭いとか、周囲の雑然とした雰囲気から、「これはヨダレを垂らしてる場合じゃないぞ」って判断してヨダレを垂らさなくなるようになるのではないかと思う(実験してないから分からないけど)。 そして、そのようなことが数回(もしかしたら1回で覚えるのかも知れないが)生じたら、そのイヌは「焦げた臭いがして、周囲が雑然としたところで鳴るベルの音は、エサの合図ではない」ということを学習するだろう。 このような現象は、心理学の古典的条件付けの分野では『学習の消去』と呼ぶ(と思う。これは精神の生態学には書いていなかったので僕の推測だけど)。しかし、学習が消去されたというよりは、コンテクストの違いを学んだといった方がいいだろう。ベイトソンの立場に立てば、パブロフイヌは、火事場から逃げ出した後で、もう一度研究室でベルの音を聞けば、またヨダレを垂らすはずである。研究室内で聞くベルの音はエサと結びつくことをすでに学んでいるから。 このように、ベルの音という刺激を、パブロフイヌは状況に応じて別のコンテクストで解釈したのであるが、別のコンテクストであることを知らせるしるしを、ベイトソンは「コンテクスト・マーカー」と呼んだ。この場合だと、研究室の臭いや周囲を歩く研究者といった光景は、エサをもらえるコンテクストの「コンテクスト・マーカー」であり、焦げ臭い臭いや雑然とした雰囲気は火事を知らせる「コンテクスト・マーカー」である。 パブロフイヌの例だけだと寂しいので、別の例を挙げてみよう。 例えば、公園でケンカをしている集団がいたとする。周囲に誰もいなくて、あなたが通りすがりの人間でたまたま目撃してしまったら、110番した方がいいんじゃないか、と考えるのではないだろうか(もしくは逃げるか)。 でも、その場に撮影をしている人がいたらどうだろう。あなたは、「これは映画のロケか何かかも知れない」と思って、むしろ観戦する立場にまわるかもしれない。 事実はどうだか分からない(大事なのは事実がどうであるかというよりもあなたがこの刺激に対してどのようなコンテクストであるかと分析することである。これについては別項で述べる)。でも、このようにコンテクストの解釈が異なるのは、撮影をしている人という「コンテクスト・マーカー」が存在していたからである。 このようにして、人(おそらく動物も)はコンテクストを切り替えて、物事(刺激)を解釈しているのだと思われる。
ばんじょーです。ブログを読んでくださっているみなさま、あけましておめでとうございます。
ついに2006年になりました。みなさまの今年の抱負は何でしょうか?僕の抱負は「やせること」です。今まで食べたいものを食べるダイエットというのを今まで行って来たのですが、実はこれはダイエットではないということに最近気がつきました。いや、正確には、気が付いてた自分を深層心理の奥底に沈めてフタをしていたというべきでしょうか。 いずれテストが近くなるとストレス太りするので、その時のためにあらかじめやせておこうかな、と思います。また太ることを前提にダイエットするのは間違ってますか、そうですか。 さらに今このブログをビールを飲みながら書いてるのはもっとダメですか、そうですか。 そんな意志の弱い僕ですが、今年も一つよろしくお願い申し上げます。 ![]() まぁ、せっかくの新春ということで、面白動画でも。 リス危機一髪 リスの「してやったり」的なところが面白い動画です。でも、助かってよかったね。 ねこコンビニ 心温まるフラッシュ動画です。こんなコンビニがあるといいな? 思い通りにならないマグネット 多人数同時参加型のゲームです。人同士の価値観ってこんなに違うんだな、ってことを教えてくれるゲームです。 ホラースターと祝うクリスマス CMの動画だと思いますが、ホラーが怖いのは文脈次第なんだな、って思います。 ネコサッカー ネコが可愛い動画だったので載せてみました。 # by ishikawasss206 | 2006-01-02 00:38
医学生向けのHPの紹介をしたいと思います。医学関係者でない方も、読んでみると意外に面白い記事が載ってるかも…。
医学書 Useful things for Medical Students 医学参考書の評価サイトです(おそらく鹿児島大学医学科の方が作られたHP)。どのような参考書を購入すればいいか迷ったときはこのHP。 書評…広大医学科参考図書Navi 同じく、医学参考書の評価サイト。 医学部4年生のためのCBT対策室 新潟大学医学科の方が作成されたHP。お薦めの医学参考書情報からCBT・国試資料まで、幅広い情報がそろっています。 医学部学生のための教科書ガイドwiki 医学生向けの教科書ガイドのHPです。wikiで作成されているため、誰でも更新可能です。更なるコンテンツの充実化に期待です。 医学部2~4年向け参考書リスト 名古屋大学医学部生お薦めの参考書リストです。 電子教科書 解剖学講義ノート 神戸大学寺嶋教授が作成された解剖学の電子教科書です。これだけの高いレベルで作成された電子教科書はなかなかお目にかかれないのではないでしょうか。お勧めです。 解剖学電子教科書 慶應医学部の解剖学教室が編集したHPです。こちらも重宝します。 内科学電子教科書 北里大学医療衛生学部医療情報学研究室で編集された内科学の電子教科書。もとデータが「内科診断検査アクセス: 日本医事新報社(1989.5.20.)」なので、少々古いかも…。 新生理学<Qシリーズ> 北里大学医療衛生学部医療情報学研究室で編集された生理学の電子教科書。 勉強の参考になるHP 鎮痛の研究 痛みの研究のHP。分かりやすいです。 生理学リソース 生理学についての資料、リンク集の掲載されているHPです。滋賀大学医学部の先生が作成されたHPか? 医学生の勉強に使えるホームページ集 名前の通り、医学関係のリンク集のHPです。三重大学医学部の先生が作成されたHPか? 東京都神経科学総合研究所 神経系の資料を掲載しているHP。興味深い記事が閲覧できます。 学生のための医学教育を考えるホームページ 秋田大学の臨床の先生が書かれたHPです。免疫学についてためになる記事が掲載されています。
前回のブログ(2005-12-17)の続きから。
ある人が相手から目をそらしてうつむいたとき、状況によってその意味の解釈は変わってくる。「好きな人と一緒にいるとき」と、「先生が授業中に生徒に向かって質問するとき」では、上記の行動を取ったとしてもその意味するところは違ってくるだろう(前者は照れてるから、後者は答えが分からないから)。 同じ行動でもその意味するところが変わってしまうのは、背後に流れるコンテクスト(文脈)が異なるからである。 コンテクストっていうのは、言葉とか行動の意味の解釈を助ける(限定する)ものである、って考えていいのかな。 これは、ベイトソンのコンテクストの定義である、「ある刺激(行動やメッセージ)を決定するような文脈全体」というものに当てはまると思う。 たぶん、友達と会話しててトンチンカンな受け応えをしたときに「文脈読めよ!」ってつっこまれるときの「文脈」の意味と同じと思っていいんじゃないだろうか(まぁ、あまり使うツッコミではないけど)。 でも、ベイトソンは次のようにも定義している。 「コンテクストとは、有機体に対し、次に行うべき選択の選択肢群がどれであるかを告げる出来事全てに対する集合的総称」(by精神の生態学p394) うーん、難しい文章である。選択肢群ってどういうこと?出来事全てってどういうこと? この定義を解釈するには、まず人はコンテクストというものをどういう風に学ぶのか、ということから話したほうがいいと思う(今回のブログではこの定義についての説明はしません。後日のブログであらためて書きたいと思います)。 そもそもコンテクストは学習するものなのか、という問題があるが、確かに、コンテクストを読む力は生まれつき人間に備わっているわけではないだろうから、ある時点で学ぶことなんだと思う。 学生時代は話の流れを読めずに場違いなことばっかり言ってたクラスメートが、社会人になってから久しぶりに会ったときに、TPOに合わせた会話をしているのを見て「おお、こいつ、成長したなぁ」と目を見張るのも、コンテクストを読むことをそのクラスメートが学んだからだと言えるだろう(実は僕がそんな学生であったことは周知の事実。っていうか今もそうかも)。 では、コンテクストをどういう風に学ぶかというと、実は、何かを学習するときに、同時に、半ば無意識的に一緒に学習しちゃってるのだ。 例えば、haveという英単語には「持つ」「食べる」という意味がある。haveって単語を覚えたときに、一緒に「お昼時にこの単語を使うと食べるって意味だな」とか「持ち物を確認するときにこの単語を使うと持つって意味だな」ってな感じに、コンテクストも一緒に学習するわけである。 ここまで読まれた方は、学習には段階があるということに気づいたのではないかと思う。 英単語を覚えるような学習と、その単語の適切な使い方を示すコンテクストを認識するような学習(って、ややこしいね)とでは、種類が違う。 ベイトソンは、前者のような学習を「学習Ⅰ」、後者のような学習を「学習Ⅱ(=学習することを学習する)」と定義した。 「パブロフのイヌ」は有名な実験であるが(ベルの音を聴かせた後でと餌を出し続けると、ベルの音を聞くだけでヨダレを垂らすようになるっていう実験ですね)、あれは恐らく学習Ⅱも伴っていたんじゃないか、と思われる。実験室という環境、白衣を着た周囲の人間、といった要素が学習を促進させたんじゃないか、と。だから、毎回違う場所で違う人間が実験を行った場合や、たまに火事の現場にイヌを連れて行って火災報知機のベルの音を聞かせちゃったりしたら、もしかしたらベルの音を聴いてもヨダレを垂らすことを覚えないかも知れない。 この学習Ⅱ(=コンテクストの学習)というのは、別に実験室内での話だけではなく、日々の学習に常についてまわる。そして、学習Ⅰを促進させたり阻害したりしている。 「日々の学習」とは「日々の経験」と置き換えてもいいだろう。 僕が大阪に転勤したときに驚いたのは、エスカレーターを駆け上がらない人は右側に寄る、ということを見たときだった(関東圏は左側に寄りますよね)。それ以降、知人の大阪人の行動(いろんなことにツッコミを入れる、語尾に「~やねん」とつける、などなど)に対して注意を払い、大阪に馴染もうと思って真似るようにした。「大阪というコンテクスト」を意識してから、大阪文化をより早く吸収できた気がするが、これも、日々の経験がコンテクストの学習とセットになっている例だと思う。 別に普段と違った経験をした場合でなくても人は常に何かを学習している。そして、極端な話、人間は生きてるだけで何らかのコンテクストを常に学習しているのであり、コンテクスト抜きの学習というのは存在しないと言えるだろう。 そして、何かを新しく学習する場合でも、過去に似たような学習をしたときのコンテクストを思い出して適用することがしばしばある。以前勉強したときに静かな場所で勉強したら調子がよかったから、今回も静かな場所に行こう、とかね。 ってことは、過去の経験(=過去に学んだコンテクスト)から独立した学習は無い、と言えるんじゃないだろうか。過去の経験に縛られて、非効率的な学習をしちゃったり、選択的に何かを学習しないようにする、などなど…。3つ子の魂百まで、なんてことわざもあるしね。 長くなっちゃったけど、今回の話を要約すると、以下の通り。 ①単語や物の値段を覚えるいった学習(学習Ⅰ)とともにコンテクストを学習する(学習Ⅱ)ということ ②過去に学んだコンテクストの影響を受けつつ、新しい学習Ⅰ(もしくは日々の経験)を新たなコンテクストとセットで学ぶ、ということ。 ちなみに、人によってコンテクストが違うということを書いたが、じゃあ友人同士が会話してるときはその違うコンテクストをどうやって共通のものにしてるんだ、っていう疑問が出てくるのではないだろうか。それについては、また次回以降に書いていきたいと思う。 以下にベイトソンの学習の定義を転記する。参考まで。 ![]()
ベイトソンつながりということで、本の紹介でも。
卒業写真のアルバムを見たときに、「この人、実物と全然違うよ」って思ったり、実物と写真のギャップに思わず噴出したことはないだろうか? ![]() 顔というのはハイ・コンテクストであり、ハイ・コンテクストとはすなわち文脈性を瞬時に伝達することを意味する、とは精神科医の斉藤環が『文脈病』の中で書いていることである(確か)。 この説明だと分かりにくいですね、ごめんなさい。 顔っていうのは、「僕がばんじょーだよ」っていうようなメッセージ(刺激)を各所から他人に向けて放出している。例えば眉のしかめかた、微笑み方、瞬きの仕方、目線の動かし方、etc. それらの様々な情報を、顔を特定してもらうために一瞬で伝えられるのが顔であり、逆に写真としてくくりだされてしまうと、伝えられる情報量がガクッと落ちてしまうため、「う~ん、あいつ、こんな顔してたっけ?」という話になってしまうのである(と思う)。 この文脈病って本、面白いんだけど、非常に難しい言葉で書いてるんですよね。例えば何の注釈もなしに「シニフィアン」って言葉がポン、って出てきたり。僕もこの本に書いてあることを理解できているわけではないのですが、ラカン、ベイトソンについてある程度知っている人であれば理解が進むのではないかと思います。 『文脈病』では、いろいろなマンガ(吉田戦車、中川いさみetc.)について精神分析的な解釈を行っている。 「ギャグマンガ日和」(クラスメートが貸してくれたマンガです。爆笑でした、多謝!)。についても分析してもらえないかな~、と思っているのだが、ただ待っていてもつまらない(?)ので、このマンガについて、ベイトソンの理論を用いて私的に分析してみることにしたい。 この『ギャグマンガ日和』というマンガは、歴史上の有名人物をおよそありえない人物像として描くことで、笑いをとることに成功したマンガであると思われる。 ![]() 例えば、右は「ギャグマンガ日和」の2巻から引用したもので、そのストーリーは、ガリレオ・ガリレイがピザの斜塔から2つの鉄球を落とす実験をしようとしたときに、弟子が鉄球の代わりにガリレオの秘蔵のH本を2冊落下させた、というものである。 この場面を見たときに感じるのが、ガリレオほどの偉い人が、H本に投稿して、しかも弟子にそのH本を物色されて、衆人の前でそれをさらされるという、「いじめられっこのガリレオ」と、僕の中にある「威厳ある科学者のガリレオ(って、実物に会ったことはないけどね)」との間にあるギャップである。 ちなみに右下の図では、落ちてきたH本を「大技を使って」回収したガリレオを描いている(って、どんなガリレオだよ!)。 この「いじめられっこのガリレオ」というコンテクストと、読み手の中にある「威厳あるガリレオ」というコンテクストの交差が笑いを呼ぶのではないかと思うのである。これがもしガリレオでなく、ただの一般市民を描いたものであれば、それほど面白くないのではないだろうか(と思う)。 ![]() 斉藤環先生、早くこのマンガを分析してくれないかな~、って、首を長~くして待とうと思います。 補足:ハイ・コンテクストというのは果たして無時間モデル(静的な情報=目や唇の位置)なのか、それとも時間の概念を含むモデルなのか(動的な情報=眉や唇の動かし方)、どちらなのだろうか?上の文章ではその両方を含む解釈をしているが、まだまだ勉強していかなければいけないなぁと思う。 # by ishikawasss206 | 2005-12-18 10:45
グレゴリー・ベイトソン(1906~1980)はアメリカの文化人類学者である。
![]() 彼の主要な研究は、バリ島の文化の研究から始まり、学習理論とコミュニケーション理論を手がけるなど多岐にわたる。 特に重要な業績としては、コンテクストという概念を組み合わせた学習理論を体系立てたこと、そしてそこからダブルバインド理論を生み出したことだろうか。 彼の思想は一般に知られていないかも知れないが(ベイトソンを知らなかったのは実は僕だけだったりして)、彼の打ち出した思想は、数十年経った現在でも十分実用に耐えるものであると思われる。 では、彼の研究内容について紹介していきたいと思う。 1.生協の白石さんが「癒し系」なわけ ほとんどの方は「生協の白石さん」をご存知だと思うが、知らない方のために説明を。 ![]() 「生協の白石さん」とは、東京農工大学の生協の職員さんであり、生協への要望を書いた「一言カード」に対する、ウィットと優しさに溢れる切り替しが巷で話題を呼んでいる。 さて、その白石さんがなぜ巷で人気を博しているのか?僭越ではあるが、ベイトソンの考え方を用いて、白石さんが「ウケるわけ」について考察したいと思う。 白石さんのコメント Q.愛は売っていないのですか…? A.どうやら、愛は非売品のようです。もし、どこかで販売していたとしたら、それは何かの罠(わな)かと思われます。くれぐれもご注意ください Q.単位が欲しいんです。 A.そうですか、単位が欲しいですか。私は単車が欲しいです。お互い頑張りましょう。 ここでは、この2つのコメントを例に挙げたいと思う。 ベイトソン曰く、ユーモアとは複数のコンテクスト(文脈)を重ね合わせることだそうである。 このコミュニケーションにおいて、2人の関係は、「客と店員」という関係で終わらず、「一緒に悩む仲間」というコンテクスト(文脈)が重なっている。 この一瞬の立場の転換に、メッセージを見た方は、「あれっ?」と不思議に思い、いつの間にか悩みをくくりだされてしかもアドバイスまで受けていることに対して、思わず微笑むのではないだろうか。 このような、「客と店員」というコンテクストだけでなく、別のコンテクストををかぶらせる(この場合は「一緒に悩む仲間」)、というのが白石さんのユーモアの秘訣なのではないかと思う。 ちなみに、白石さんが使っているであろう手法がもう一つある。それは家族療法で用いられる「外在化」と呼ばれる技法で、何か問題が生じたときに、その原因を特定の人の中にではなく、外部に見出すというものである(多分、この定義でいいと思います…)。 内田樹もブログの中で、「すぐれた医者は決して患者を責めない」と書いている。ウチダ先生が歯の治療をしてもらったときのお話であるが、その部分を以下に引用させていただく。 『「患部と患者」を共犯関係にくくりこむよりは、「患部」をワルモノにして、「患者と医者」が共同原告団として「歯」を責める、という話型は治療の方法としてはたいへんに効率的なのである。 「なんてひどい歯なんでしょう。これじゃ、あなたも大変ですよね。気の毒に…」と言ってあげれば、患者は「歯の悪行」を逐一報告すべく、医者のもとにいそいそと通うことを厭わなくなる』 上の白石さんの2番目のコメントでは、「単位を取得できないのはあなたの責任だ」という切り替えしではなく、「あなたは単位が欲しいけどまだ取れてないんですよね、自分も単車が欲しいけど…」というように、責任の所在を外部にくくりだしている。 白石さんの癒しを含んだウィットは、外在化のコンテクストを重ねることから来るものなのではないかと思うのである。 白石さんのファンの方へ、「この分析は間違っている」と思われる方もおられると思いますが、私的分析ということで、どうか一つご海容のほどを。 もう一つ例を。ダウンタウンのコントで、こんなのがあった。 松本「最近ファンに尾けられてる気がするんや」 浜田「ふんふん」 松本「この前も落とし穴にはめられそうになってな」 浜田「落とし穴かい!」 松本「いやな、道の真ん中にパイナップルが置いてあってな…」 これも、「ファンに憧れられる松ちゃん像」と「ファンにバカにされる松ちゃん像」が一瞬で交錯するところに面白さがあるのではないかと思う。そりゃ、バレバレな落とし穴を作って松ちゃんを待ち受けてるって時点で、松ちゃんを侮ってるってことになるものね。 このギャップを、コンテクストの交差であると見抜いたところにベイトソンの凄みがあるといえるだろう。そのコンテクストについて、次のブログでもう少し詳しく書いていきたいと思う。 (2005.12.18.10:10大幅改訂) (2005.12.19.19:20改訂) 追記:笑いについては、V.S.ラマチャンドランが「脳の中の幽霊ふたたび」で最新脳科学の見地から分析を行っている。それについてはまた後日にでも…(後日ばっかりですみません)。
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