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移転しました

すみません、ブログを移転しました。

移転先は「続・晴耕雨読
となります。

お手数ですが、ブックマークに登録されている方は(もしそのような方がおられるようでしたら)、変更よろしくお願いいたしますm(__)m。

移転先でも、引き続き読んでいただけると嬉しく思います。
# by ishikawasss206 | 2006-01-17 22:35 | 移転先リンク

なかなかの授業

先日、耳鼻咽喉科の授業の一環として、別の大学の先生(以下、M先生と記載)が来て、SRS(睡眠時無呼吸症候群)について授業をしてくださったんだけど、それがとても面白い授業だったので、ブログに書こうかと思う。

授業の内容は、夜は生理的に眠くなるという人間の眠気の周期についての説明から始まって、SRSで眠りの周期が妨げられるとどのような症状が出てくるか(合併症)、SRSの原因と治療法、といったものであった。

で、どこらへんが面白かったのかというと、実は授業内容ではなくて(内容も面白かったんだけど)、授業の進め方である。一言でいうと、なんか”うさんくさい”感じがしたのだ。

そう、そっちの”面白い”だったんですね。

例えば人間の生理的な眠気の周期について。明け方の3時~4時は統計的に眠気のピークであるらしいのだが、世界的な大事故は大体その時間に起きていることからもうなずける、とのことであるが…。

世界的な大事故ってどの程度の事故なんだ?


他にも、眠気の周期は昼過ぎと明け方の3時くらいであり、それ以外の時間、特に夕方の5時~8時は交感神経が活発になっているから、その時間にスポーツで高記録が出やすいらしい。

でも、夜は副交感神経優位になるという話を聞くし、昼より夜の方が高記録の数が多いとしても、それは夜の方がスポーツを行う機会が多いから(昼はみんな仕事してるから、観戦しに行けないからね)、分母が大きくなって、そのため必然的に記録の数も多くなるっていう原因も考えられるんじゃないだろうか。

まぁ、それらの話はM先生にしてみれば例え話なんだろうから、そこまで目くじらをたてなくてもいいかな、とも思うんだけど、うさんくささを感じたのは上の話だけではない。

授業中にSRSかどうかを判定するアンケートを行って、学生に挙手させて、その数を指名した学生に数えさせたんだけど、どうもその結果を研究に使うらしいのだ。

こうやって文章にして書くと自然に聞こえるかもしれないけど、実際は「この統計のとりかたは問題あるんじゃないの?」という感じだった。まず、大教室の授業で、全員が出席しているとは限らないから、母集団の数も不明であった(しかも、授業に出ている学生の人数を確認していない)。
次に、突然近くの学生が指名されて挙手の数を数え始めたんだけど、慣れてないだろうから数えミスがあったんじゃないだろうか。。っていうかいきなり統計を取るから手を挙げろ、と言われた上に、アンケートに答えるための十分な時間をとらずに挙手をさせたとあって(少なくとも僕には回答の時間が足りなかった)、モチベーションがあがらず、見えるか見えないかぐらいの感じで挙手した人もいるのではないだろうか?実は僕がそうだったんだけど…(おい!)。それではむしろ数えミスしないほうが不思議なくらいである。

ここまで書いただけでも、偏り(バイアス)のある統計結果が出たことが予想される(疫学的には測定バイアスがかかっていると思われる)。

というか、うちの学校の先生ならまだしも、外部の先生が初対面の学生に対して、大した説明もせず、このようなデリケートな仕事をさせるべきではないんじゃないだろうか、と思う(もしやる場合は、綿密な打ち合わせを行うべきだと思う)。授業中のノートの整理もあるだろうに、いきなり訳も分からず仕事を振られて「ちゃんと数えないと調査結果に響くからきちんと集計するんだよ」とか「挙手の合計の人数と出席カードの数が違ってたら、出席を受け付けないからね(ってことは全員欠席?)」なんて言われた集計係のクラスメートに同情の念を禁じえない、というのもあるのだが(ほんとに気の毒だったと思います。K君、お疲れさまでした)、それよりも、なぜM先生は「学生は先生がアンケートを取ったら出来る限り誠実に回答し、学生に数える仕事を任せたら正確に数える」と無条件に信じることが出来るのだろうか、というところで引っかかるのである(あっ、別に集計者が数をごまかす、とか言っているわけではないですよ。条件によっては、正確に数えたくても数えられない場合があるんじゃないか、ということが言いたいわけでして)。

別に僕のクラスの生徒が信用できないと言ってるわけではない(むしろ、うちのクラスは歴代でもまじめな方だというのが先生方の評価らしい)。相手が信用できる人間かそうでないかという問題ではなく、経験的に、初対面の人間同士は心理的に距離を取るのが自然だと思う、ということが言いたいのである。逆に不必要に近寄ってきたり(なれなれしかったり)、仕事をいきなり押し付けたりする人間に対しては、うさんくささを感じてしまう人が多いのではなかろうか。

「星の王子さま」byサン=テグジュペリにも、友達の作り方について、お互いに徐々に近づいていくものなんだ、ってなことが書いてあるよね。

多分、僕がM先生に対して感じてしまう”うさんくささ”は、先生の無防備とも取れるような心的距離の取り方からきているように思うのである。それは先生が「どこでも医学生は信頼できる」という前提を無意識においているからなんじゃないかと思うけど…。いや、手前みそだけど、医学生は一般に倫理性は高いと思う。人の命をあずかる仕事につくために勉強してるわけだしね。でも、僕自身が信頼のおけない、先生に対して反抗的な生徒(いつも内職か睡眠か、って感じなので←おい!)なだけに、その前提の置きかたはどうなんだろう、って思ってしまう。

僕が思うに、自分の設定した前提条件が正しいものだと信じてしまう(っていうか前提条件を表在化する必要性を感じない)ことは、何らかの理論を立てたとき、どこかで矛盾を引き起こす可能性がある。冒頭でM先生の例え話にかみついたのは、その矛盾の徴候を感じたからかも知れない。

ちなみに、前提の誤りに気づきにくいことは、立花隆が「知のソフトウェア」で書いている。

………

僕、なんだか偉そうなことを書いてしまってますね、すみません。それ以前に、このブログが先生方の目に触れることがあれば、僕の立場が危うくなる気がする…(そのときはすみませんがどなたかこっそり教えてください。速攻削除します)。あまり人に知られていないブログでよかった、と思う瞬間である。

ちなみに、ここまでM先生に対してずいぶんネガティブなことばかり書いてしまったけど、ためになることも結構言っていたんですよ。
例えば、SRSになると夜尿を併発する場合があるらしいんだけど、その機序は以下の通りだそうだ。

SRS→肺に酸素が行きわたらなくなるため陰圧になる→さらに肺に血液を送るため心血流が増加→右房圧が上昇→ANP(心房利尿ペプチド)分泌促進→利尿促進→夜尿

うん、この説明は分かりやすいし、理論的に納得できるなぁ。


思うに、普段不真面目な僕が授業を聞いていたのは、この”うさんくささ”と”ためになる”ことが混ざっていたからなのかもしれない。「これってほんとかなぁ?一部うそっぽいけど、でもためになりそうだし…」っていうような話が僕は好きなんだな、って思ったりする。自分自身がうさんくさいことをよくくっちゃべってる人間だから、うさんくさい話が大好きなのである。


ちなみに、M先生の授業、すごい良かった、って方へ。こんな否定的なブログを書いてすみません。どうかお気を悪くしないよう。
では、このへんで終わりとします。長文失礼しました。
# by ishikawasss206 | 2006-01-15 03:38

受験シーズンと商売戦線

そろそろ大学受験のシーズンである。

センター試験まであと1週間、受験生にとっては今がまさに正念場だろう。

産業界も今の時期を売り込みのチャンスとにらんだのだろう、近所のマックスバリューに買い物に行ったら、こんな商品を発見した。

「大学にうか~る カールちーず味」

むむ、やるなぁ、そう思っていたら、別の棚にはこんな商品が。

合格当前(アタリメ)
絶対勝魚(かつお)
難関軽通(カルパス)

こっちもなかなかのネーミングセンスだ。でも、全部酒のつまみなのが気になるところである。お父さんが息子・娘の合格を祈念しながらこれで一杯やるのだろうか。

ちなみに、その隣の棚には「目指せ合格・コアラのマーチ」が売っていた。もはや大学受験とは何の関係もないネーミングであるが、なんとなく購買意欲がそそられるのが不思議である。

う~む、これだけ絶妙なネームを見せられると、僕も何かいいネームを考え出さなきゃいけない気がしてきた。燃やさなくてもいい対抗心を燃やしてるのは、今日の耳鼻咽喉科のテストが勉強不足のせいで不完全燃焼だったからという説もあるが、そんなことは脇においておいて。

例えば、「志望校に技あり!わさビーフ」なんてどうだろう。

…なんだか、「一本じゃないのかよ」ってつっこみを受けそうなネーミングだなぁ。むしろ不吉なネーミングな気がしてきた。どうやら商品化する機会は永遠になさそうである。

なにはともあれ、受験生の皆さんには頑張って欲しいと思います。

ちなみにFテキストではセンター試験の解説を他のサイトに先駆けて行う予定です。

FTEXT

と、さりげなく宣伝してみたりして。身近に受験生がおられる方は、勧めていただけると嬉しいです。かなり受験勉強に役立つサイトですよ。
# by ishikawasss206 | 2006-01-13 22:55

グレゴリー・ベイトソン<その4・メッセージの階層>

2006-01-06の続きから

前回のブログでは、コンテクスト・マーカーがコンテクストの違いを知らせることについて書いた。

でも、2つのコンテクストが重なることだってあるんじゃないだろうか?

例えば、誰かがあなたに「そこの座布団の上にネコがいるよ」と伝えたとする。このメッセージが意味することは、「実際にネコがいる」ということだけでなく、「あなたがネコ好きだと知ってるから伝えたんだよ。これはあなたに対する親愛の印だよ」ということでもありうる。この場合は、事実を伝えるコンテクストと、親愛の情を伝えるコンテクストが重なっていると言える。

そう、この2つのコンテクストは階層が違うのである。このように階層を変えれば、一つの刺激に対して複数のコンテクストを重ねることが可能なのである。これは『グレゴリー・ベイトソン<その1・イントロ>』で書いたように、ユーモアが2つ以上のコンテクストを重ねることで生まれる、ということに通じると思う。

このようなコンテクストの階層の違いについて、ベイトソンは『精神の生態学』で、数学者・論理学者であるバートランド・ラッセルの論理階梯理論を参照している(ラッセルの論理階梯理論自体については僕はよく分かっていないので、あやふやな説明になってしまうかもしれませんが、そこはご容赦を)。

論理階梯理論とは何か?実はよく話からないんだけど、様々な事象を抽象度(論理階層)を分けて考察を加える方法を考えることなんじゃないかと思う。例えば、チェシャネコ、三毛猫、ペルシャネコといった具体的なネコは、それらの集合である抽象概念の”ネコ”とは異なる。誰かに「どんな動物が好き?」って聞いたときに、相手が「そうねぇ、イヌ、ゾウ、ネコ、アルマジロ、三毛猫…」なんて言ったら、「おいおい、抽象的なのと具体的なのが混じってるぞ」って思うだろう。そんな風に、並べたときに違和感を感じる組合せが論理階層の違う組合せである、と言っていいと思う(てきと~な説明でごめんなさいね)。

有名な例としては、クレタ人のパラドックスというものがあげられる。「クレタ人はみんな嘘つきだ、とクレタ人は言った。」っていう、新約聖書に書かれているアレである。

論理学的に、同じ階層で考えてもこの問題は解決する。
すなわち、

①言ってる本人はクレタ人なので嘘つきだ。
②でも、「クレタ人はみんな嘘つきだ」という言葉が嘘である必要はない。なぜなら、別に常に嘘をつく必要はないからだ。

論理学的には、「クレタ人である=嘘つきだ」と「嘘つきではない=クレタ人ではない」が命題として等しくなるので、別にクレタ人がたまたま嘘つきでないからといって、そのことがクレタ人であることを否定するわけではないのだ。

まぁ、ここらへんはややこしいので、よく分からないや、って方は飛ばしてくださってもOKです(←早く言えって!)。

でも、ベイトソンが言っているのはこのような話ではなく(あぁ、頑張って上の説明を読んでくださった方から怨嗟の声が聞こえてきそうだ…)、言語のレベルの違いの話である。

これは自己言及文と呼ばれるものである。「クレタ人はみんな嘘つきだ…A」というメッセージを対象言語といい、「このメッセージをクレタ人が言った…B」ことはメタ言語と呼ばれる(by数学者タルスキー)。そう、Aのクレタ人とBのクレタ人は、チェシャネコと抽象的ネコの違いと同様、階層が異なるのである。

だから、具体的なクレタ人は嘘つきだけど、いま自分はクレタ人とかなんとか人とかそういう次元を超えて上から客観的に見下ろす立場で発言してるから、具体的なクレタ人という枠組には含まれないのよ、という説明が可能なのである。

クレタ人のパラドックスはただの例でしょ、って思われるかも知れないが、こんなケースはどうだろう。
僕の知り合いで、「医者って人間は嫌いよ」とよく言う人がいるのだが、それって僕個人も含まれるのか(まだ医学生だけど)、って思うと別にそうではないらしい。これは、医者一般は嫌いだけど、個人では好きな人もいる、ってことで階層の違いを暗に含んでいるんだと思う。

まぁ、本当は嫌われてるのかもしれないけど…。

でも、こんな風に、何気なく言った言葉(一般論)なのに「それってオレ(私)のことについて言ってるの?」なんて受け取られた、なんてことは身近にあることなのではないだろうか。

このように、一つのメッセージに対して、異なる階層での解釈を加えることが可能である。これが、すなわち階層の異なるコンテクストでメッセージをとらえるということである。

一つのメッセージに対して、階層の異なる複数のコンテクストを同時にあてはめることが出来るとして、それらのコンテクストがお互いに矛盾するものであったらどうだろうか?片方のコンテクストでメッセージを解釈すると、もう片方のコンテクストで解釈することが出来ない、でも両方のコンテクストで解釈しなければならない、という異常ともいえる状況があるとしたら?

これがベイトソンのいうダブル・バインドというものであるが、次回はそれについて話を進めていきたいと思う。


補足)クレタ人のパラドックスについて、若干違う形で知人のブログにも取り上げられているのだが、書き込んだら長くなりそうだったので、そのブログを見たときにはコメントを差し控えさせてもらいました。本当は書き込みたかったんだけど、このブログをもって、コメントに変えさせていただくということで…。
あと、論理階層については、『攻殻機動隊』15話「機械たちの時間」で、学習型AI搭載ロボット”タチコマ”が、人型ロボットのコンピュータシステムをダウンさせるときに使ってる手口である。いや、アニメ『攻殻機動隊』はよく練られた話だと思います。貸してくれたクラスメートのK君に感謝です。これについては後日項をあらためてブログに書きたいと思います。なにせ電脳化っていうのは現実でもかなり研究が盛んな、アツい分野なものだと思うので。
# by ishikawasss206 | 2006-01-06 04:34 | 心理学・現代思想

グレゴリー・ベイトソン<その3・コンテクストマーカー>

2005-12-26のブログの続きから。

前回、パブロフのイヌについて、火事場で火災報知器のベルを聞いたらヨダレを垂らさないんじゃないか、ということを書いた。

もしかしたら最初はヨダレを垂らすのかもしれないけど、焦げた臭いとか、周囲の雑然とした雰囲気から、「これはヨダレを垂らしてる場合じゃないぞ」って判断してヨダレを垂らさなくなるようになるのではないかと思う(実験してないから分からないけど)。

そして、そのようなことが数回(もしかしたら1回で覚えるのかも知れないが)生じたら、そのイヌは「焦げた臭いがして、周囲が雑然としたところで鳴るベルの音は、エサの合図ではない」ということを学習するだろう。

このような現象は、心理学の古典的条件付けの分野では『学習の消去』と呼ぶ(と思う。これは精神の生態学には書いていなかったので僕の推測だけど)。しかし、学習が消去されたというよりは、コンテクストの違いを学んだといった方がいいだろう。ベイトソンの立場に立てば、パブロフイヌは、火事場から逃げ出した後で、もう一度研究室でベルの音を聞けば、またヨダレを垂らすはずである。研究室内で聞くベルの音はエサと結びつくことをすでに学んでいるから。

このように、ベルの音という刺激を、パブロフイヌは状況に応じて別のコンテクストで解釈したのであるが、別のコンテクストであることを知らせるしるしを、ベイトソンは「コンテクスト・マーカー」と呼んだ。この場合だと、研究室の臭いや周囲を歩く研究者といった光景は、エサをもらえるコンテクストの「コンテクスト・マーカー」であり、焦げ臭い臭いや雑然とした雰囲気は火事を知らせる「コンテクスト・マーカー」である。

パブロフイヌの例だけだと寂しいので、別の例を挙げてみよう。

例えば、公園でケンカをしている集団がいたとする。周囲に誰もいなくて、あなたが通りすがりの人間でたまたま目撃してしまったら、110番した方がいいんじゃないか、と考えるのではないだろうか(もしくは逃げるか)。

でも、その場に撮影をしている人がいたらどうだろう。あなたは、「これは映画のロケか何かかも知れない」と思って、むしろ観戦する立場にまわるかもしれない。

事実はどうだか分からない(大事なのは事実がどうであるかというよりもあなたがこの刺激に対してどのようなコンテクストであるかと分析することである。これについては別項で述べる)。でも、このようにコンテクストの解釈が異なるのは、撮影をしている人という「コンテクスト・マーカー」が存在していたからである。

このようにして、人(おそらく動物も)はコンテクストを切り替えて、物事(刺激)を解釈しているのだと思われる。
# by ishikawasss206 | 2006-01-06 02:28 | 心理学・現代思想